パナソニックサイトへのリンク

Translate The Way of The Pinwheel

2017年10月15日日曜日

隅田公園(水戸徳川家下屋敷跡)


この地は江戸時代、水戸徳川家の下屋敷・小梅別邸が置かれたところである。 徳川御三家の一つである水戸家が才浜屋敷(現・中央区)に替えてこの地を賜ったのは、1693(元禄6)年、3代綱條の時である。屋敷は、西は隅田川に面し、南は北十間川をめぐらし、面積およそ66000㎡、約20万坪、南北200余、東西約300mにわたり南に広がる梯形の地で、現在の向島1丁目のほぼ大半を占め、墨田区南部におかれた大・小名屋敷80余のうちで最大の規模を誇るものであった。
1844(弘化元)年、烈公として知られる9代斉昭が藩政改革の一端から幕府の誤解を招き駒込別邸で謹慎を命じられた際、改革派の中心であり高名な水戸学者であった藤田東湖が責任の一斑を負い蟄居の日々を送ったのもこの屋敷内の長屋であった。
やがて明治維新となり、11代昭武の代を以て藩制度は解消、一時政府の管理するところとなったものの、その後改めて水戸家本邸が置かれ、当時は最後の将軍徳川慶喜もよく来ていたようで、数多くの写真が残されており、立派な門や洋風建築が建てられていた在りし日の姿が伺える。
明治になり、明治天皇がそれまでの都を京都から江戸に移した。天皇家では、平安時代から宮中の花宴を代々開催していたが、明治維新の混乱期や東京遷都で中断していた。1875(明治8)年花宴の再開において、明治天皇は東京で初めて行う花宴の会場に、この墨堤の水戸徳川家小梅邸を選んだ。この時、以下の歌を詠んでいる。

花くわし 櫻もあれと 此やとの よゝのこゝろを 我はとひけり

いかにも王政復古の気負いに満ちた若い帝の歌で、新都の歴史を訪ねたという歌である。明治25年には昭憲皇太后も訪問している。
しかし大正12年9月、関東大震災の劫火により烏有に帰し、230年に及ぶ水戸屋敷の歴史はここで幕を閉じた。
昭和6年、帝都復興計画に基づき隅田公園が造営されると、水戸邸の旧跡は同園に取り入れられ、往時をしのぶよすがをその一角にとどめ、広く市民の憩いの場となっていた。しかしその後、半世紀近い歳月とともに環境は変化し、また第二次大戦の戦火の被害もあり、その面影もおおかた失われた。
昭和50年、この公園を管理することとなった墨田区は、昭和52年区政施行30周年を記念して改修に着手した。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Thank you for commenting. We value comments and will reply to questions. コメントを残していただき、誠にありがとうございました。