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2017年10月15日日曜日

「小野諫草」と徳川光圀

 「水戸黄門の漫遊記」

白いひげをたくわえた黄門さまが、助さん格さんという若侍(わかざむらい)をつれて国々をめぐり、いたるところで「天下の副将軍なるぞ」と悪代官をこらしめ、あわれな民百姓を助ける「水戸黄門諸国漫遊記」は、いく度も映画や講談の題材となってあきられることがありません。
 この「漫遊記」は、実は、明治二・三〇年頃、大阪の講談師によって作られた話で、実際にあったものではないのですが、それにもかかわらず、いつまでも黄門さまの人気がおとろえないのは、民衆の心理の底にある正義感や抵抗の精神が、「名君」水戸黄門こと徳川光圀の人格に託して表現されているからだろうと思います。
 江戸時代をつうじて、「名君」とたたえられる人物は数多くおりますが、徳川光圀ほどたくさんの人々の尊敬をあつめた人物はほかにいないのではないでしょうか。今でも一代の伝記や言行録は多く残っておりますが、それは水戸だけに限られず、日本中に伝えられているのです。
 けれども、言い伝え、書き伝えていくうちに、光圀の人物像はしだいに美化され、ときには偶像化されたものもあるのですが、ここでは、もっとも信頼度の高い文献によって、若き日の光圀の実像に触れてみたいと思います。

 光圀の生い立ち

徳川光圀(義公)は、長かった戦国時代の余燼(よじん)もおさまった寛永五年(一六二八)の六月十日、水戸藩初代の藩主徳川頼房の第三子(女子を加えれば第七子)として生れました。今から三五一年前ということになります。頼房は徳川家康の末息子、第十一男ですから、光圀は家康の孫にあたるわけです。
 光圀は、幼名を長丸(ちょうまる)のち千代松、九歳で元服してからは光国と名乗り、国を圀の字にあらためたのは、五十六歳頃のことのようです。生母は、家臣の谷重則のむすめで、名を久子といいました。ところが父の頼房は、なぜか光圀の出生を喜ばず、「水にせよ」と申し渡したのですが、家臣の三木仁兵衛という者の計らいで辛うじて助かり、光圀は水戸城下柵町の、三木の屋敷内で生まれ、しばらく三木夫妻の手で養育されたのです。三木の家敷跡と考えられる場所(三の丸二丁目)には、現在「義公生誕之地」と刻んだ石碑が建てられています。
 四歳までは、三木の家で普通の武士の子とかわりなく育てられておりましたが、五歳になると公子としてお城に入り、六歳のとき七歳年長の兄頼重をさしおいて世嗣(よつぎ)(次の藩主予定者)に選ばれました。そしてまもなく江戸へ上って小石川の水戸藩と本邸に入ることになります。今の後楽園野球場のあるあたりです。
 もともと後楽園というのは、水戸藩の付属の庭園の名称で、頼房が光圀の生れる前の年に着工したものです。明(めい)暦の大火(一六五七)で焼けてしまいましたので、光圀が四十二歳頃これを補修して完成させました。今でも、野球場の西側に往時をしのぶ立派な庭園の一部 -といっても野球場よりもひろい面積ですが- が残っていて、名勝史跡に指定されています。なお、後楽園という名は、中国の宋(そう)という国の范希文(はんきぶん)が政治を行なう人の心得を示した名言、「士はまさに天下の憂に先んじて憂ひ、天下の楽に後れて楽しむべし」(岳陽楼記)から採(と)ったものです。

 「かぶき者」光圀

光圀には、少年時代からたくさんエピソードが残されていますが、七歳のとき小石川藩邸近くの桜の馬場で、処刑された罪人の重い生首を闇夜に一人で引きずって帰ってきた話や、十二歳で洪水直後の浅草川(現在の隅田川)を泳ぎきるという離れ業をやってのけた話などはよく知られているものです。
 十三歳からは家臣の小野角衛門ら三名が傅(ふ)(補導役)として専心教育にあたったのですが、この時分の光圀は学問の方にはほとんど関心を示さなかったばかりか、不逞無頼(ふていぶらい)の風が強かったようです。小野角衛門の諫言(かんげん)文(いさめた文章。これが「小野諫草」です。)によれば、十六・七歳の光圀は、そのころ江戸で流行した「かぶき者」(異様な風体をして大道を横行する者)の仕草をまね、かぶき者がよくひく三味線や琴を好み、服装もいろいろ伊達(だて)に染めた木綿の小袖にビロードの襟をつけたものを着、また馬屋へも気軽に入って草履取と野卑な世間話をし、弟たちを前にしては「色好み」のことを得意げに話すなど、数々の非行で「権現様(家康)の御孫様」とはとても思えない、とまわりの人たちをあきれさせていました。父の頼房は誰よりもこうしたわが子に心をいため、熱海へ湯治に出かけた時にも十六歳の光圀をわざわざ同伴し、旅先で日ごろの行状にきびしい注意を与えたりしたのですが、親の忠告に耳を傾けようとせず、まして小野の意見など歯牙にもかけず、わがまま放題にふるまっていたようです。

 光圀の立志

ところが、光圀の心の転機は思いがけずに早く、十八歳のとき突如として到来しました。その動機については、十八歳のとき中国の「史記」という書物の、伯夷伝というところを読んで深く感銘し、兄頼重の子をあとつぎにする決心をするとともに、今まできらいだった学問にも励むようになった、と伝えられています。「史記」とは、中国古代の司馬遷(しばせん)(紀元前一四五~八六)が著した有名な歴史書です。その中の列伝(れつでん)(人臣の伝記をつらね記した記録)という部分のはじめにあるのが伯夷伝つまり伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)兄弟の伝記で、ここに次のような記事があります。
 むかし、孤竹国の王子に伯夷・叔斉がおり、父は弟に国を譲りたいと思っていた。父の死後弟は兄をこえて国を継ぐのは礼に反するとして兄に譲ろうとしたが、兄も父の遺志を尊重して受けず、二人とも国外に去ったので、人々はやむなく中の子に国を継がせることにした。
 伯夷・叔斉兄弟の高潔な人柄に接した光圀は、これまでの自分の生活を顧みて強い衝撃を受け、深刻な反省の気持を抱いたのでしょう。自分の子がありながら、兄の子に家督をゆずる決心をしたのも、この兄弟の高い徳義に感銘したからにちがいありません。
 光圀は三十四歳のとき水戸藩の第二代の藩主となりますが、その家督相続にさいして光圀は兄弟たちを集め、そこで十八歳から心にきめていた宿志をうちあけ、ためらう兄頼重を説得してその子を養子にむかえ、これを育てることになります。はじめ綱方(つなかた)をむかえたのですが、およそ十年後に病死しましたので、弟の綱条(つなえだ)を養子としました。 この綱条は、光圀が六十三歳で太田の西山荘に隠居したあと、第三代の藩主となる人です。光圀は実に四十六年ぶりにようやく初一念を果しえたわけでこれは強靭(きょうじん)な意志力をもった光圀だからこそできたことではないでしょうか。

 光圀と「大日本史」

ところで、学問に志をたててからの光圀の勉強ぶりはまことに目ざましいものでした。十九歳になると、先生格の人見ト幽(ひとみぼくゆう)・辻了的(つじりょうてき)といった学者との交際がにわかに活発となり、その年早くも人見を京都につかわし書物を収集させたりしています。人見は、公家の邸宅などをまわり、古典の筆写に努めていたのですが、その一人冷泉為景(れいぜいためかげ)が人見から聞いた光圀は、毎日古書をひもとき、和歌の道に励む、向学心旺盛な青年でした。二十歳を迎えた年の七夕の日には、大志をいだいて学問の成就を天に祈るほど、精神的に飛躍をとげていたのです。
 このような光圀の姿は、つい三・四年前の小野角衛門の諫言からは想像できないことでした。やがて小野が職を辞して水戸へ帰ることになったとき、光圀は「忘るなよつらねし袖をわかつともおもふこころははなれし物を」と歌を詠んで送りました。少年時代に受けた深い恩を決して忘れていませんでした。
 光圀は、日本でも「史記」のような立派な歴史書があれば、後世の人々を発奮させることができるだろうと考え、三十歳からそのための編さん局を設けました。はじめ駒込の別邸におかれましたが、十五年後に小石川の本邸に移し、彰考館と名付けられました。京都をはじめ各地から優秀な学者を多数まねいて編集に当たらせたのです。その歴史書は「大日本史」として有名ですが、完成したのは何と明治三十九年のことで、実に二五○年の歳月を要したわけです。しかしそれは、強い精神力をもった光圀にいかにもふさわしい大事業だったといえましょう。
 茨城大学教育学部教授 鈴木暎一

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